授業の疑問点や質問(メディア2021)

メディア2021

モデレータ: TadashiNakajima

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TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

授業の疑問点や質問(メディア2021)

投稿記事 by TadashiNakajima »

授業の疑問点や質問(メディア2021)
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

コミュニケーションに対して観察者が異なる判断をしたら?

投稿記事 by TadashiNakajima »

 授業で、観察者(第三者)からみて、メッセージ(社会情報)の交換が持続的に行われていないと、コミュニケーションは成立しないという内容を授業でやって、その授業の内容から、気になることがひとつあったので質問します。
質問
 議論でコミュニケーションのテーマを互いにコミットメントしているとき、コミュニケーションが成立すると教えられましたが、もし、議論をきいている人達がたくさんいて、そのなかの1人が、[コミュニケーションが成立していない]と判断した場合、成立していたコミュニケーションは成立しなくなってしまうのでしょうか?

R.Kさん

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 コメントありがとうございます、R.Kさん。

 まず、客観世界は存在しない(存在したとしても認識することは出来ない)ことを思い出して下さい。客観世界は存在しませんので、答えが一つになることはありません。したがって、コミュニケーションが成立したという判断と、成立しなかったという判断が同時に出現しても問題ではありません。判断は観察者の主観ですので、答えが観察者によって異なることは必然です。この点をまず確認しておきます。

 では、答えが食い違った時にどちらの主観を正しいとすべきなのでしょう。まず、誰の主観なのかが問題になります。社会学の素人(コミュニケーションさえも定義できない人)と、社会学の研究者では信頼性に大きな違いがあります。よってこの場合は、研究者の主観が優先されることでしょう。また、同じようなレベルの人同士の場合は議論になるかもしれません。つまり、「コミュニケーションの成立の可否」をテーマとするコミュニケーション(メタ・コミュニケーション)です。このディスカッションにより合意が得られればそれが結論となるでしょう。逆に同意が得られなければ多数決になるかもしれません。要は、コミュニケーションは社会的な現象なので、その成立の最終判断は社会が行うことになります。そして、社会の判断なので、それが常に正しいという保障もありません。客観的な正答がある、つまり「答えいが一つになる」と思うこと自体に客観世界を想定しており、我々は疑似客観世界に住んでいることを忘れているのです。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

偶然に会話が持続的に行われた場合、コミュニケーションの成立の是非は?

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 コミュニケーションの成立には当事者同士がテーマを互いにコミットメントすることと、観察者から見てメッセージの交換が持続的に行われていれば「コミュニケーションが成立した」と判断できると書かれていますが、もし片方の当事者がテーマを理解できておらず、適当に話していることが偶然にも相手に通じてる状況で話が持続的に行われている時、この場合コミュニケーションが成立しているといえるのでしょうか。

S.Oさん

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 コメントありがとうございます、S.Oさん。

 先のR.Kさんへの回答の通り「コミュニケーションは社会的な現象なので、その成立の最終判断は社会が行います」。したがって、当事者の主観は参考程度でしかありません。観察者(社会)の判断が全てですので、ご質問のケースでは「コミュニケーションは成立している」となるでしょう。但し、社会の判断ですので、時間と共に結論が変化することも有り得ます。ある時点では「成立している」と判断できたとしても、その後の観察によって齟齬が発見されれば「成立していない」と修正される可能性はあります。現実に、当てずっぽうで急場を凌げても、後でボロが出ることは多々あります。つまり、メッセージ交換の持続性を、短いスパンで捉えるのか、長いスパンで捉えるのかの違いです。持続性の尺度によって異なる結論になったとしても、疑似客観世界に住んでいることを考えれば問題とはならないのです。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

観察者の主観的な考えでコミュニケーションの成立を判断して良いのか?

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 2人のメッセージ交換を、観察者が見ていてメッセージの交換が持続的(疑似的な相互理解が生じている)に行われていればコミュニケーションが成立したと判断できるが、疑似的な相互理解は観察者の主観的な考えで、コミュニケーションが成立したのか、していないのかが決まってしまうのかと疑問に思った。

R.Sさん

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 コメントありがとうございます、R.Sさん。

 まず、先のR.KさんやS.Oさんへの回答を確認してください。その上で少し説明を付け加えてみます。最終的に社会が判断するとしても、そのための材料は必要です。そしてその判断材料に成り得るのは、観察者の主観による判断以外に存在しません。なので、コミュニケーションの成立判断は、観察者の主観的な考えで決めるしかないのです。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

「機械情報を物理的に媒介する機能」において「機能=メディア」なのか?

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 機械情報を物理的に媒介する機能。この文章にある「機能」というのはメディアのことなのか。これが疑問に思ったことです。
 また、よく理解できなかった点が、社会情報を論理的、感性的に媒介する機能。のことだ。
 メディアはAIだ。AIが感性的に媒介することができるのかと、あまり理解できなかった。

M.Sさん

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 コメントありがとうございます、M.Sさん。

 メディアの定義は「社会情報を媒介する機能」です。なので、メディアは機能です。但し、その機能とは「社会情報を媒介する」ものになります。どこに問題があると仰られているのでしょう?ところで「メディアはAIだ」ということは何処から出てきたのでしょう?そんな定義を授業で行った記憶はありませんが。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

成果メディアは疑似的?

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疑問に思った点
 成果メディアを通じてコミュニケーションをすることができるが、コミュニケーションは疑似的な相互理解なので成果メディアも疑似的なものではないのか。
 成果メディアがなかった場合コミュニケーション以外に支障が出るものはあるのか。

N.Kさん

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 コメントありがとうございます、N.Kさん。

 疑似的という言葉をどう捉えておられるのでしょう。ちなみに基礎情報学では、「互いに同じものだと確認することはできないが、同じであろうと推測できること」を疑似的と称しています。私もあなたも超能力者ではありませんので、互いの心を読み取ることは出来ません。つまり、私の考えと、あなたの考えが、同じものだと確認すること出来ません。ですが、ペーパーテストを行いその結果により(疑似的な)相互理解の度合を測ることができます。高得点ならば疑似的な相互理解があると推測することができますし、低得点ならば逆の推測になるでしょう。成果メディアも直接比べることはできませんから、両者が同じかどうかの判断は疑似的にならざるを得ません。繰り返しますが「互いに同じものだと確認することはできない」ので疑似的なのです。
 以上を踏まえて、質問に対する回答は「結論は正しいが論理展開が間違っている」となります。成果メディアが疑似的であるのは「コミュニケーションは疑似的な相互理解」だからではありません(論理展開が×)。成果メディアは思考の中で行われるため、「互いに同じものだと確認することはできない」ので疑似的になる訳です(結論は◯)。
 なお2つ目の質問は重要度が低いので割愛させていただきます。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

communicationには情報を伝えるという意味がある

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 英語だとcommunicationは、情報を伝えるという意味があります。つまり第三者がいなくても成立するのになんでコミュニケーションは、第三者がいないと成立しないのか。
 コミュニケーションの原始化が何故いけないのか。

R.Mさん

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 コメントありがとうございます、R.Mさん。

 コミュニケーション (communication) の語源はラテン語のコムニカチオ (communicatio) です。コムニカチオの意味は「分かちあうこと、共有すること」であり、ご指摘のような「伝える」という意味はありません。ちなみに、communicationを情報の伝達と言う意味で使い始めたのはクロード・エルウッド・シャノン(Claude Elwood Shannon)の『通信の数学的理論:A Mathematical Theory of Communication』です。シャノンは電気工学者で、シグナル(信号)が通信回線を通る時に発生するノイズを最小限に抑える研究をしていました。そして、数学を利用し、ノイズが発生したとしても可能な限り効率よくシグナルを送る為の基礎理論を構築しました。現在のインターネットや携帯電話の回線速度はシャノンの功績抜きには有り得ません。しかし、ここでシャノンが注目したのはシグナル、つまり機械情報の伝達であり、社会情報の伝達ではありません。そこに注目せずに、当時のマスコミや学者がシャノンの理論を情報一般に当てはめ、それを彼の論文名にあるCommunicationという言葉に押し込めてしまったのです。このために、ご指摘のような誤解が生じてしまいました。はっきり申し上げますが、あなたが指摘なされているcommunicationの意味はシャノン流であり、それは機械情報に限定されるものです。決して社会情報に適用されるものではありません。シャノン流のcommunicationの意味は機械情報を共有することですなのです。機械情報は意味を構築しなくてもコピーできます(共有できます)。だからこそ、コンピュータなどのIT機器は共有によってエラー0%(伝達率100%)を達成しているのです。一方、人同士が行うコミュニケーションでは社会情報が使われますので、そこにシャノン流のcommunicationの解釈を行うことは極めて不適切なことです。そして、人間によるコミュニケーションで重要なのは、機械情報の共有ではなく、社会情報の共有(意味の疑似的な共有)です。社会情報の共有は疑似的なので、第3者による判断が必要になるのですが、この先は先のR.Kさん、S.Oさん、R.Sさんのコメントを参照してください。
 なお2つ目の質問は重要度が低いので割愛させていただきます。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

マスメディアによって報道されたことが世論になってしまう

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 マスメディアによって、報道されたことが世論になってしまうのではないかと思ってしまいます。発信者の考えが押し付けられ、受け取る側は、疑問を抱いてもその意見のみが社会に反映されてしまうのではないかと思います。

M.Kさん

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 コメントありがとうございます、M.Kさん。

 今後の授業を先取りした内容のコメントで、仰る通りです。なお、この件につきましては3学期に改めて取り上げる予定です。楽しみしていてください。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

人間もメディアか?

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 中学校で情報を伝えることができるもの全部メディアと聞いたのですがそうなると人間もメディアになるのでしょうか。
 それとも元々中島先生と矛盾してるとこも多いのでどっちが間違っているのかしりたいです 。

H.Kさん

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 コメントありがとうございます、H.Kさん。

 中学校の授業がどのようなものであるか知りませんので、明確なことはコメントできません。仮に、メディアを生命情報の伝達まで拡大して考えているのならば、解らないこともないような気がします。生物の遺伝情報(生命情報の一種)はDNA上にあり、細胞内に存在しています。なので、細胞(生体)は生命情報を伝えている(媒介している)と考えられなくもありません。ですが、基礎情報学においてメディアが媒介するのは社会情報に限定されています。なので、上記のように生命情報まで含めることはできません。さらに、社会情報は「人が意図的に記述、描画、動作などにより、交換しあうあらゆるもの」となっていますので、人間とは切り離されています。したがって、人間がメディアになることはできないことになります。

 ここまでを考えなから読んでこられた方は、「成果メディア」が気になったことと思います。成果メディアは思考の中で勝手な意味を構築しないように作用していますので、思考つまり人間の心の中にあることになります。とすると、上記の結論と矛盾することになります。基礎情報学では、思考は生命情報と捉えています。思考(心の中の考え)は外部から覗き見ることはできませんので、他者と交換することが出来ません。つまり、社会情報の定義に合わないのです。思考は具体的な言葉や行為行動にならない限り生命情報なのです。そして生命情報である思考を社会情報に変換しているものが成果メディアなのです。成果メディアは社会情報と生命情報(思考)とのインタフェースなので、社会情報の立場から見ると人間の外に存在しています(社会情報の定義より)。その一方生命情報の立場からすると人間の内部に有りますが、そこでは社会情報を扱えないのでメディアではないことになります。ちょっと難しい論理展開でしたがお解りになれたら幸いです。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

多様化した価値観しか存在しない社会はダメか?

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 成果メディアについて、多様化した価値観しか存在しない社会に生きているせいで自己責任を要求され不安定で生き難い社会になっているせいで社会がダメになっていくのかなと思ったのですがどうでしょうか。

H.Iさん

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 コメントありがとうございます、H.Iさん。

 ずいぶんと悲観的な質問ですね(笑)。確かに、現状の我が国を見る限り、あまり良い状態とは言えないような気がします。しかし、過去の封建社会や、現存する独裁的な国に比べたら月とスッポン、めちゃくちゃ良いように思えます。絶対的な価値観しか認めない封建国家、独裁国家、全体主義国家などが、多様化した相対的な価値観を認めている制度よりも良い点など一つもないと思います。このことの正しさは歴史が示しています。何かの良し悪し、善悪を決めるときには基準点が必要ですが、この設定を間違えてはなりません。理想的な状況を基準にすれば、今の我が国は駄目な状態といえるでしょう。でも、独裁国家(例えば日本海の向こう側の国)を基準にすれば、比べられないぐらいに良い状態です。どこを基準にするのか、どの方向から観察するのかなど、観察者の視座によって判断は違ったものになります。なので、何かを判断するときにはできるだけ広い視野が必要になるのです。ちなみに、私は理想的な社会を基準にして現状を見ています。そして、もっと良くなるはず、もっと良くできる筈と思っています。つまり、現状をただ駄目だと悲観しているのではなく、より良い社会に変わって欲しいと願っているのです。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

教員は無責任でない!

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 先生は将来選択をせかして失敗しても責任をとらない無責任な奴と言っていたが結局決めるのは自分だし、先生はそれに向けて頑張ってくれるから無責任ではないのでは?

T.Kさん

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 コメントありがとうございます、T.Kさん。

 いいえ、無責任です。何故なら生徒の選択ミスについて責任を負う義務はないからです。我々教員には、卒業時における生徒の進路を確保する義務は存在します。進学を希望する生徒がいれば、進学補習などを行っているのもそのためです。しかし、進路選択のミスに対する義務はありません。義務がありませんので責任も生じることはありません。つまり、無責任です。
 「頑張っているのだから無責任でない」という議論には何の根拠もありません。「頑張っているのだからテストが0点でも良い」と言っているのと同じです。お気づきになられたと思いますが、この文章は成果メディアが狂っています。責任は義務に付随していますので成果メディアは「法」です。「義務がないので責任を取らなくて良い=合法」ですから無責任で良いことなります。一方「それに向けて頑張ってくれる」の成果メディアは「法」ではありません。無理に「法」に結びつけようとすれば「職務遂行義務」になるでしょうか。しかし、それは生徒のためではなく、単なる公務員としての義務ですので、勤務時間内の話にとどまるでしょう。この場合であったとしても進路選択に対しては無責任であることは変わりありません。
 もしかするとあなたの考えは、「自分のために頑張っている教員が好き」ということではありませんか?この場合の成果メディアは「愛」になるでしょう。ですが「愛」の成果メディアで、責任の是非を扱うことはできません。あなたの質問は「頑張っている教員」は「法」よりも「愛」で評価すべきではないのか、というように見受けられます。「愛」で評価したいという考えを否定するつもりはありませんが、それが責任の是非と繋がることはありません。それでも責任問題に敢えて成果メディア「愛」を持ち込むならば、それは論点のすり替えになってしまいますね。

 これからも面白いコメントをお待ちしています。

担当教員より
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