「コミュニケーションの影響」の授業で感じた疑問点や質問

モデレータ: TadashiNakajima

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TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

「コミュニケーションの影響」の授業で感じた疑問点や質問

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「コミュニケーションの影響」の授業で感じた疑問点や質問についてのスレッド
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

自由な意志は存在するのでは?

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 「コミュニケーションからの潜在化された拘束/制約の中で、自由な意思というものが果たして存在するのだろうか?」という先生の意見に対して疑問に思いました。現実(=コミュニケーションによる拘束/制約)の中で自分の意思や思考が問題にならなければ、自由な意思として存在するのではないかと思ったからです。

H.Mさん
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 コメント有難うございます、H.Mさん

 自由という概念をどこまで想定するかによって答えが違うのではないか、というご意見でしょうか。確かに自由という概念をどこまでに設定するかは個人によるでしょう(主観)。その意味では、H.Mさんのおっしゃる通りなのかも知れませんね。しかしながら、コミュニケーションから拘束/制約を掛けられているという事実に変わることはありません。人が何かを発想するあらゆる場合、それは経験に基づいています。文章を考えるときは母国語(母国の文化)に拘束されていますし、オリジナルの図柄と言っても今までみてきたものに拘束されています。逆にコミュニケーションの拘束/制約を全く受けないとすると、誰ともコミュニケーションをとることはできなくなってしまいます。そして、その状態こそが真の自由と言えるのです。この授業の目的の一つは、皆さんに改めて自由について考えてもらうことでした。人の考える自由など、自由な発想をしているつもり、自由に行動しているつもりに過ぎず、選択肢があるだけで容易にそう感じてしまう至ってナイーブ(素朴)なものであることを意識してほしいと思います。この点に関して詳しくお知りになりたければフランスの哲学者ミシェル・フーコーの著書が参考になるでしょう。

 担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

コミットメントのタイミング

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 コミュニケーションの拘束/制約を潜在化し常識として身に付けることは、そのコミュニケーションの成果メディアにコミットメントすることに繋がるとわかりましたが、どのタイミングで成果メディアにコミットメントするのか疑問に思いました。

T.Kさん

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コメント有難うございます、T.Kさん

 面白い質問ですね。コミットメントはコミュニケーションの成立の最低条件でしたので、コミュニケーションが成立している間は常にコミットメントが行われていると考えるべきと思います。イメージとしては、コミットメント中にコミュニケーションが行われる、つまりコミットメントの中にコミュニケーションが入れ子になっているということでしょうか。

コミットメントスタート-------<コミュニケーション>-------コミットメントエンド》

コミットメントのスタートとコミュニケーションのスタートの時間差はまちまちであることを注意しておきます。時間差がほとんどない(会話)こともあれば、かなりの時間を要する場合(手紙)もあります。
 ただ、コミットメントは常に同じ状態とは限りません。おしゃべりをしていると話題が変わることは多々あります。つまり、コミュニケーション中に成果メディアが変化していることになります。とすると、コミットメントの変わり目が存在することになり、コミットメントは細かく原子化(細かく単位化)できることになります。コミットメントを原子化されたもととして捉えると上記のイメージでは説明したことになりません。では、上記のイメージ図が間違っているのかと言うと、そうではありません。なぜなら、コミットメントを原子化して捉えるならば、コミュニケーションも原子化して捉える、つまり「社会情報の交換」として捉える必要があるからです。このことは次のような図にできます。

(原子化されたコミットメント ==「社会情報の交換」 == 原子化されたコミットメント)

つまり、原子化されたコミットメントのタイミングは「社会情報の交換」の前と言うことができます。
 上記2つの図を合成すると

(原子化されたコミットメント ==「社会情報の交換」 == 原子化されたコミットメント)(原子化されたコミットメント ==「社会情報の交換」 == 原子化されたコミットメント)(原子化されたコミットメント ==「社会情報の交換」 == 原子化されたコミットメント) 》

という形になるでしょう。この図ならば、コミュニケーション中にテーマが変わることを説明することができます。
 皆さんには説明しませんでしたが、コミットメントは実は成果メディアの機能の一部なのです。成果メディアにはテーマ以外にも多くの機能が含まれるのですが、かなり難しい話なので授業では割愛しています。気になるようでしたら、私のDVD『基礎情報学に基づく高校教科 「 情報 」 の指導法2』をご覧になってください。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

拘束/制約と人間性

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人に拘束、制約がなくなったら人間性がなくなるのですか?

A.Wさん

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コメント有難うございます、A.Wさん。

 ここで取り上げている拘束/制約はコミュニケーションによるものです。よって、コミュニケーションからの拘束/制約がなくなった場合、そのコミュニケーションに参加できなくなるので、失われるのは社会性ということになるでしょう。あなたが指摘している人間性に社会性が含まれるのならば、あなたのおっしゃる通りと言えると思います。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

ある実在が常識であるかの判断

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 常識は世間的に当たり前だと思われていることだが、ある物事が上位指揮下(※「常識か」のタイプミスと思われます)常識でないか判断できないものがあるのではないかと思った。
 例えば、スマートフォンと携帯電話の利用についてはどちらも利用されているから。

S.Sさん

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コメント有難うございます、S.Sさん。

 常識について授業では、「あるコミュニケーションにおいて共通化された拘束/制約」と定義しました。この定義によれば、コミュニケーションが異なれば、常識が異なっても構わないことになります。あなたのおっしゃる「世間」とは何を指しておられるかが不明ですので何とも言えませんが、スマートフォンと携帯電話については簡単に説明することができます。現在の両者の普及率を考えれば、スマートフォンの利用が常識となるでしょう。しかし、ある年齢より上の世代となると携帯電話の方が常識と言えるのかも知れません。また、スマートフォンが登場する前やその直後は、スマートフォンの普及が進んでいませんので間違いなく携帯電話が常識でした。繰り返しになりますが、常識とはコミュニケーションにより異なります。したがって、何が常識であるかは、どのコミュニケーションを想定してるかによってまったく異なることになります。世界的に見ればアンドロイドが圧倒的に普及している(世界的にはアンドロイドが常識)のに、何故か日本ではiPhoneが普及している(日本的にはiphoneが常識)ことも、なんら理論的(常識の定義としては)にはなんら問題がありません。
 私が気になるのは、あなたの想定している世間なるものについてです。あなたは、自分が想定している世間をきちんと説明できるでしょうか?もしかして、明確な定義をせずに使用しているのではないでしょうか。だとすれば、まずはそのことを明確にすることをお勧めします。かなり難しいですが、ベネディクト・アンダーソンの書籍が参考になります。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

無意識に意識が含まれる?

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 無意識によって成り立っているコミュニケーションの中に「私は○○だと思う」というような自意識も含まれていることがあまり理解できませんでした。

Y.Fさん

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 コメント有難うございます、Y.Fさん

 一般的に無意識は2種類あります。一つは先天的なもの、つまり生まれついたときからある本能のようなものです。こちらの無意識に意識が含まれると考えることは多少無理があるかもしれません。この点については、あなたの疑問の通りでしょう。もう一つは、習慣や学習、体験によって得られたものです。自転車に乗ることを憶えているでしょうか。色々と失敗しながら意識して乗れるように努力したはずです。でも、今は意識せずに無意識に乗っているのではないでしょうか。勉強も同じで、計算や漢字、英単語を憶えることも意識して努力したのではないでしょうか。でも、今は無意識に利用しています。1学期に説明した通り、スポーツでも日頃の練習は意識して行い、試合では無意識のプレーで勝負が決まります。このような後天的な無意識は、実は意識から生まれています。あなたが行うコミュニケーションのほとんどは後天的な無意識で行っていると思います。あなたのお使いの言語(日本語)は決して先天的なものではないことを思い起こしてください。

担当教員より
TadashiNakajima
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登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

LINEが世界で普及した理由

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 ネット社会となっているいまなぜ一度に多くの情報を送れるものよりLINEなどの一定の人におくるものが流行っているのか。

S.Wさん

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 多くの人に情報を伝達する社会になっていく中、LINEなどの一定の人に情報を伝達するものがどうして世界に出回ったのか。

T.Sさん

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 LINEのような不便な私的コミュニケーションが世界で流行したのか。

K.Nさん

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コメント有難うございます、S.W、T.S、K.Nさん。

 ご存知の通り、LINEも通常のインターネットによるコミュニケーションツールとして、つまり多数<=>多数で使用することも可能です。が、ほとんどの使用方法を見ると少数<=>少数になっておられるようです。実に不思議なことです。ただ一つ面白いことが分かっています。それは、LINEは世界的にはあまり普及しておらず、主に東アジア地域に限って普及が進んでいる、ということです。他のSNSであるFacebookやTwitterは米国が発祥ですが、LINEは日本発祥(親会社は韓国)だということを考えると、非常に面白ことだと思います。もしかしたら西洋と東洋の思想的な違いが関係しているのかも知れませんね。
 さて、一つ確認しておきましょう。自分たちの常識を過大に評価しない方が懸命ですよ。インターネット上であろうとも自分の回りで常識であることが、必ずしも世界的な常識であるとは限りません。アンドロイドとiPhoneのことを思い出してください。LINEが世界的に普及しているのは常識である、という証拠を見つけてから質問なされていますか?

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

新しいコミュニケーションタイプの誕生はあるか?

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 これから新たなコミュニケーションタイプが誕生することはあるかが気になった。

R.Tさん

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コメント有難うございます、R.Tさん

 メディアはコミュニケーションのタイプを決定するメカニズムであることを考えると、新しい伝播メディアが発明されれば、新しいコミュニケーションのタイプが誕生することになることでしょう(論理的な結論です)。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

コミュニケーションのタイプにより影響力が異なることについて

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 なんで私的コミュニケーションからインターネットによるコミュニケーションにいくにつれて影響力が大きくなるのかという点。

Y.Mさん

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コメント有難うございます、Y.Mさん。

 難しい質問ですね。私は個人的には、客観性が深く関係していると考えています。私的→公的→マス→インターネットと関係する人間の数が増えてゆくと説明しました。このより多数の人々と同じ考えを共有していると言うことが、常識のレベルが上がっているように認識されるように思われます。私的コミュニケーションに参加する人数よりマス・コミュニケーションに参加する人数が多い→私的コミュニケーションの情報よりマスコミュニケーションの情報の方が正確という考えを導いている。私はこのように考えているのですが、あなたは、また皆さんはどう思われますか?ご意見をお聞かせください。

担当教員より
TadashiNakajima
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登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

インターネットで授業を!

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 影響力の強いインターネットで授業をやるのはだめですか?

Y.Yさん

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コメントありがとございます、Y.Yさん。

 良い考えですね。私は予てから同じことを思っていました。ネットで授業ができれば、学校に登校することも必要なくなります。生活指導をする必要もなくなるわけですから、教員にとってもこんな良いことはありません。残念なことに、お役所がOKしません。実は、この質問コーナも生徒との相互通信の形で行いたいと県に申し出ていたのですが、許可が降りずこのような形態になっています。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

拘束を与えないコミュニケーション

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 コミュニケーションをした時に相手に拘束を与えないで話せは(※「話すことは」と判断しました)出来ないのかなと思いました。

N.Tさん

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コメント有難うございます、N.Tさん。

 不可能ではないですよ。むしろ私の日常のほとんどは、相手に拘束を与えないコミュニケーションです。例えば、
1.連絡した遠足の申込書の提出が忘れ去れている → 提出させるという拘束を与えられていない
2.授業で行ったことをテストに出しても誤答ばかりである → 正答を憶えると言う拘束を与えられていない

数え上げたら切りがありません。日々、実に無意味なコミュニケーションをしているわけです(笑)。

 冗談はともかくとして、コミュニケーションは相手に何かしらの意味を持たせること、つまり擬似的な相互理解が生じた時に成功したと見なされます。そして、擬似的にせよ相手が何かの意味が構築したならば、その意味構築は拘束と考えることができますから、相手に拘束を与えないコミュニケーションは有り得ないことになります。上記の例でいうと、
1.生徒の思考を拘束に与えられなかったのでコミュニケーションではない
2.生徒に誤答を拘束したコミュニケーションである
ということでしょうか。え、お前の授業の内容に意味を構築したことなどないって。はい、それは「無意味である」という意味を構築なされたことですから、例2の極端な形に含まれることとなります。

担当教員より
TadashiNakajima
記事: 2287
登録日時: 2017年9月07日(木) 10:12

友達関係は公的コミュニケーション?

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 場合によっては、友達との人間関係は義務教育上では学校教育にはいるのではないかということ。

Y.Iさん

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コメント有難うございます、Y.Iさん

 コミュニケーションのタイプは空間を規定しているのではありません。学校という場所で行われる全てのコミュニケーションを公的コミュニケーションとは呼んでいません。少数から多数に一方的に社会情報を伝達する形態を公的コミュニケーションと呼んでいることを忘れないでください。授業やHRで教員が複数の生徒に向かって社会情報を伝達するだけでなく、たとえ友達であったとしても部長として複数の部員に向けて伝達を行えば公的コミュニケーションになります。また校長が職員に会議で社会情報の伝達をすれば公的コミュニケーションですが、忘年会の席で他の教員とおしゃべりをしているときは私的コミュニケーションなるわけです。

担当教員より
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